源氏物語 note 02


『源氏物語』は単語の数が圧倒的に少ない。それは、この時代のコミュニケーションが「言わなくてもわかる」というルールの上に成り立っていたことも、少なからず影響しているんだろう。もちろん僕は国文学の研究者ではないから、これはただの素人が勝手なことを言ってるだけだと思って、真に受けないで欲しい。
 
例えば「夕顔」の帖。源氏がある家の前で牛車を止め、ふと「おちかたびとにものもうす」と呟く。するとそれを聞いた随身はすかさず「かの白く咲けるをなむ夕顔と申しはべる」ようするに、あの白い花は夕顔ですと答えた。それは随身が古今和歌集の「うちわたす遠方人(おちかたびと)にもの申すわれそのそこに白く咲けるは何の花ぞも」という歌を知っていたからだ。
実は、この時代のコミュニケーションの「言わなくてもわかる」というルールは、特に貴族階級の人々にとっては、まさに生きていく上での必然だったのだ。文学を始めとする様々な文化的教養を身につけておかなくては、出世はおろか、恋愛すらもできなかったのだ。
 
またこのようにして紫式部が生きていた平安時代は、和歌という短詩系文学の全盛期だったわけだが、和歌はそれ自体が当時のコミュニケーションツールでもあったのだ。そして和歌には「余情」という美学があった。「和歌の表現内容の奥に感受される美的情緒」広辞苑には余情についてこう書かれている。すなわち余情とは、その言葉の背後にある文字として表現されていない「何か」のことで、時として和歌においては言葉よりも、余情にこそ作者の真意が隠されていたのである。
 
ようするに平安時代は、その限られた言葉の中から、そこに込められている広大な「何か」を探り味わうということが常識的に行われていた時代だったのだ。したがって、この時代に生まれた物語文学もまた、和歌と同じ美学、同じ方法論で書かれていたんじゃないか。そう、『源氏物語』を読み解く作業というのは、和歌を読み解く作業と同じなんだと僕は思う。

したがって『源氏物語』の現代語訳をするにあたって必要となるのは、古典文法の基礎知識だけではない。もっとも古典文法に関しては便利なアプリケーションもあるし、Googleで検索すれば即座に大量の解答が得られる。必要となるのは想像力だ。

圧倒的に少ない単語の中から、その主語はいったい誰なのか?それはいったい何を表しているのか?という謎を解明する想像力だ、

実は厄介なことに『源氏物語』の文体にはほとんど主語がない。しかし主語に関しては、使われている敬語によって、ある程度は解明できる。敬語のランクが最上級なら主語は帝だといったように。でも、そう簡単には事が運ばない場合も多々ある。例えば「桐壺」の中で、世の人々が源氏のことを「光る君」と呼び、藤壺のことを「輝く日の宮」と呼ぶくだりの「宮」だ。
 
「世にたぐひなしと見たてまつりたまひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほにほはしさはたとへむ方なく、うつくしげなるを、世の人光る君と聞こゆ。藤壺ならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、かかやく日の宮と聞こゆ」

世に類ないと名高い「宮」の美しさにも決してひけをとらない源氏の美しさ。この美しい「宮」はいったい誰なのか?

この「桐壺」の時点で宮と呼ばれる人物が3人いる。源氏と藤壺、そして帝と弘徽殿女御との間に生まれた第一皇子だ。僕はこの「宮」を藤壺と訳した。彼女はこれまでも、人々が口々に「美しい」と絶賛する美少女として描かれている。しかし後で調べてみると、この「宮」を第一皇子としている現代語訳も多くある。はたして、そうなのか?

これまで彼の母親である弘徽殿女御は、意地悪なその性格の悪さを表現したくだりは多く散見できるが、美しいと表現されたことは一度もない。また弘徽殿女御の娘、ようするに第一皇子には2人の姉妹がいたが、その容姿は源氏の美しさとは比べようもなく不細工だと書かれている。

そんな母親と姉妹をもつ第一皇子だ。これまで彼自身もまた可愛いと表現されたことは一度もなかった。にも関わらず何故に突然、絶世の美男子になったのか?もちろん母親にも姉妹にもまったく似ていない美男子が生まれることだってあるのかもしれないが、こればかりは原文に文字として書かれてないから、その美しい「宮」がいったい誰なのか?確実な答えは分からない。想像するしかないのだ。


こういった、もはや想像をめぐらすしか術がない「謎」は、単語の数の圧倒的な少なさという問題以外に、紫式部が書いた原本が残っていないという問題もある。

近年、松平信綱の子孫、大河内家の蔵の中から藤原定家による『源氏物語』の「若紫」の写本が発見され話題になったが、その中にも現在、定本とされている写本との相違点があることが指摘されている。

紫式部が書いた『源氏物語』の原本は遠の昔に失われていて、それ以後『源氏物語』は多くの人々によって書写されていった。そもそもこの「書写」というのは実に曲者で、また多くの人々によって多くの写本が作られていったということも多くの問題を秘めている。

人が手で、紙から紙へと書き写すのだ。当然そこには誤写もあったはずだ。ちなみにこの誤写に関しては、仮名で書かれていたということも大きく影響しているはずだ。漢字では伝わるが、仮名では伝わりにくい曖昧さというものがある。

もちろん中には、文学とは縁遠い人が書写していた可能性もあって、その文学との縁遠さゆえの誤写もあっただろう。逆に誉高い文学者が書写した可能性もあり、その場合、その文学的素養を生かし原本が書き変えられた可能性もある。

とにかく平安時代には、すでに話題となっていた『源氏物語』の多くの写本が存在していたことはまず間違いないと思われていて、その時代からすでに様々な、原本とは異なった写本が存在していただろうと指摘されている。

だから今、『源氏物語』の現代語訳をするにあたってもうひとつ必要なのは、原文を疑ってみることだと思う。もちろん学校の試験であれば、一言一句、原文に忠実に訳すべきだし、そうすることが要求されている。でも1000年前に書かれた、すでに原本が失われた『源氏物語』を写本から訳す場合、時としてその写本を疑ってみることは必要だ。

実は「桐壺」の現代語訳をやっていて、僕にはどうしても腑に落ちない箇所があった。これはラブストーリーとして『源氏物語』を訳している場合には、そのストーリー展開にはまったく関係がない、どうでもいい箇所だ。

「左馬寮の御馬、蔵人所の鷹すゑて賜はりたまふ。御階のもとに親王たち上達部つらねて禄ども品々に賜はりたまふ」

これは、源氏が元服の儀式を終えた後、その元服の儀式の際に引入大臣(ひきいれのおとど)を務めた左大臣を宮中に呼び寄せ、帝が彼に褒美を授けるくだりだ。左大臣は清涼殿で帝より大袿や御衣一揃を授かった後、東庭におりて帝に対し拝礼を行う。そしてその東庭にはまた、左馬寮から馬と、蔵人所から鷹が用意されていて、左大臣に贈られた。

僕が腑に落ちないのは、その後の「御階のもとに親王たち上達部つらねて禄ども品々に賜はりたまふ」というくだりだ。清涼殿の表階段に、親王や高級貴族が整列していて、そこで帝からの祝儀の品々を受け取る。そんなことがありうるだろうか?

左大臣は今でいう総理大臣だ。総理大臣には清涼殿の中で褒美を授け、彼よりもはるかに身分の高い親王や貴族には、清涼殿の中ではなく屋外の階段に整列させ、そこで祝儀を受け取る。僕はどうしても、そのシーンが想像できないのだ。

確かにこれは、想像するから想像できないのであって、ラブストーリーとは関係ないと、想像しなければ何の問題もないどうでもいい箇所には違いない。そして当然、原本が失われている以上、紫式部がこの箇所をどのように書いていたのかは分からない。

でも、ひとつだけ確実に分かっているのは、我々は紫式部が書いた原本を読んでいるのではなく、あくまでも誰かが書写した写本を読んでいるにすぎないということだ。これはとても大切な留意点だ。

現在『源氏物語』のスタンダードとされている藤原定家による写本にしても、彼が書写するまでに、すでに多くの人々の書写を経ていることは明らかだ。実際、定家は彼の日記『明月記』の中で、『源氏物語』の決定版を作るために集めた数々の写本について、その写本ごとに違っていて、いったいどれが紫式部の書いたものに近いのか判断のしようがないことを嘆いている。

そんな、繰り返された書写という過程の中で、原本の文体がどのように動き、どのように変化していったのか?と疑い、探ってみることは、紫式部が書き終えた1000年後に『源氏物語』を読む我々にとって必要なトライだと思う。それは決してタブーではない。

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