「帚木」「空蝉」「夕顔」の三つの帖は、古来「帚木三帖」と呼ばれている。そして紫式部が『源氏物語』をまずこの帚木三帖から書き始め、第一帖の「桐壺」は後でプロローグとして加筆されたものだと言われているが、もちろんそれは憶測の域を脱していない。なにぶんにも1000年も前のことだ。
そもそも、紫式部が『源氏物語』五十四帖をどのような順で書き進めたのか、また、そもそも五十四帖だったのかといったことも分かっていない。あの憧れの『源氏物語』をやっと手に入れて夢中になって読み耽った少女、菅原孝標女の日記『更級日記』の中に「源氏のごじゅうよまき」という言葉が出てくるが、これも「源氏の五十四巻」なのか「源氏の五十余巻」なのか確実なことは分かっていないらしい。当時は漢字ではなく仮名で書かれていたからだ。
僕は『源氏物語』を研究している国文学者ではないが、菅原孝標女がわざわざ「五十」という言葉を使ったことを考えれば、それは「五十四巻」じゃないかと思う。もし僕が菅原孝標女だったとして、『源氏物語』全巻が正確に何巻あるのか知らなかったのなら、あえて自分の無知を曝け出し「源氏の五十余巻」なんて言葉は使わないで、シンプルに当時の呼び名「源氏の物語」にしたと思う。
そして彼女にとって、薬師如来まで造ってどうか読めますようにと祈願し、憧れ続けていた『源氏物語』だ。やっと祈願が叶い手に入れた『源氏物語』が、手元にいったい何巻あるのか知らなかったとは思えないし、もし全巻が揃っていなかったとしたら、わざわざ「全巻揃っていませんでしたが」と「五十余巻」などと補足する意味もない。と、僕は思う。
だから僕は、菅原孝標女が「源氏の物語」ではなくて、あえて「源氏のごじゅうよまき」と書いたのは、五十四巻、全巻を手に入れ全巻を読破したぞ!という意味を込め得意気にそう書いたんじゃないかと思う。しかし、少なくとも『源氏物語』のあの54帖という長大な物語は、最初から最後まで一気に書き上げて完結させ、その形で流布させたのではないことは確かなようだ。そして、その書き進められた順番に関しても、古来、様々な憶測がめぐらされている。
実は僕が『源氏物語』を読んでいて、いつも不思議に思うことがある。それは、登場人物や物語の展開の辻褄が合っていることだ。貴重だった紙に筆でしたため、書き上げた所から断片的に流布させていて、どうして辻褄を合わせることができたのか。現実問題として、断片的に流布させていた原稿を回収し、辻褄を合わせるために書き直すなんてことは不可能だ。そう考えると、思いつきのまま好きな所から、行き当たりばったりで書いていたとは考えにくい。
とは言え、これに関しても確定的な答えを出すことは、もはや不可能だ。流れ去った1000年という歳月は、あまりにも長すぎる。
紫式部は、この帚木三帖の中に出てきた登場人物も、後の帖に、ちゃんと辻褄を合わせて登場させている。たとえば空蝉が再び物語に登場するのは第十六帖の「関屋」だ。空蝉は「夕顔」の最後で年老いた夫と共に伊予に下った。そして源氏は朧月夜とのスキャンダルで失脚し須磨に身を落としていたが、兄の朱雀帝の夢にふたりの父である桐壺帝が現れ叱咤したことによって、源氏は無事に都に呼び戻され、源氏の栄華が始まっていた。
そんなある日、源氏は念願だった石山詣に旅立つ。一方、空蝉は任期を終えた夫と共に都へ戻ろうとしていた。そんなふたりの車列が偶然、逢坂の関ですれ違い再会するのだ。その後、都へ戻った空蝉は夫と死に別れ、それを機に関係を迫り始めた、「帚木」の中で空蝉に想いを寄せていた空蝉の義理の息子である紀伊守を振り切るために彼女は出家し、落魄れた境遇に身をやつしていた所を源氏に救い出さされ、源氏の二条院の屋敷に引き取られる。
また「帚木」の中で語られていた、夕顔と頭中将との間に生まれた行方知れずだった少女は、乳母に引き取られ九州へと流れていたが、そこで美しく成長し第二十二帖「玉鬘」のヒロイン、玉鬘となって物語に登場する。源氏は長谷寺参詣の折に偶然、夕顔の侍女だった右近と再会し、こうして玉鬘は源氏の六条院の屋敷に引き取られるのだ。
『源氏物語』というのは、まさに途方もない物語だ。でも僕の源氏は、この「夕顔」で終わりにしようと思っている。もちろん「桐壺」を訳し始めた当初は五十四帖すべてを訳し、五十四帖すべてを音声出版しようと思っていた。そして「夕顔」を訳し終わった後、次の「若紫」も少し訳し始めてはいたが。
思えば、小説などという人の作り話なんて読むのは時間の無駄だと思っていたバカな高校生だった。でもそんな僕が唯一読んだ小説が『源氏物語』だった。そして僕は『源氏物語』から多くのことを学び、また現代語訳をすることによって『源氏物語』からさらに多くのことを学んだ。
だから『源氏物語』をもっと深く知りたいと思ったら自分で訳してみて欲しい。きっと『源氏物語』は、訳すことによってさらに多くのことを語ってくれるはずだ。それが『源氏物語』という文学の楽しみ方でもあるんだ。『源氏物語』は単語の数が圧倒的に少なく、表現も極端なまでに抑えられている。だから様々な解釈ができる面白さがある。言葉は時代と共に動いている。だから自分の言葉で訳せばいい。僕にだって訳せたんだから……。