源氏物語 note 03


「帚木」「空蝉」「夕顔」の三つの帖は、古来「帚木三帖」と呼ばれている。そして紫式部が『源氏物語』をまずこの帚木三帖から書き始め、第一帖の「桐壺」は後でプロローグとして加筆されたものだと言われているが、もちろんそれは憶測の域を脱していない。なにぶんにも1000年も前のことだ。

そもそも、紫式部が『源氏物語』五十四帖をどのような順で書き進めたのか、また、そもそも五十四帖だったのかといったことも分かっていない。あの憧れの『源氏物語』をやっと手に入れて夢中になって読み耽った少女、菅原孝標女の日記『更級日記』の中に「源氏のごじゅうよまき」という言葉が出てくるが、これも「源氏の五十四巻」なのか「源氏の五十余巻」なのか確実なことは分かっていないらしい。当時は漢字ではなく仮名で書かれていたからだ。

僕は『源氏物語』を研究している国文学者ではないが、菅原孝標女がわざわざ「五十」という言葉を使ったことを考えれば、それは「五十四巻」じゃないかと思う。もし僕が菅原孝標女だったとして、『源氏物語』全巻が正確に何巻あるのか知らなかったのなら、あえて自分の無知を曝け出し「源氏の五十余巻」なんて言葉は使わないで、シンプルに当時の呼び名「源氏の物語」にしたと思う。

そして彼女にとって、薬師如来まで造ってどうか読めますようにと祈願し、憧れ続けていた『源氏物語』だ。やっと祈願が叶い手に入れた『源氏物語』が、手元にいったい何巻あるのか知らなかったとは思えないし、もし全巻が揃っていなかったとしたら、わざわざ「全巻揃っていませんでしたが」と「五十余巻」などと補足する意味もない。と、僕は思う。

だから僕は、菅原孝標女が「源氏の物語」ではなくて、あえて「源氏のごじゅうよまき」と書いたのは、五十四巻、全巻を手に入れ全巻を読破したぞ!という意味を込め得意気にそう書いたんじゃないかと思う。しかし、少なくとも『源氏物語』のあの54帖という長大な物語は、最初から最後まで一気に書き上げて完結させ、その形で流布させたのではないことは確かなようだ。そして、その書き進められた順番に関しても、古来、様々な憶測がめぐらされている。

実は僕が『源氏物語』を読んでいて、いつも不思議に思うことがある。それは、登場人物や物語の展開の辻褄が合っていることだ。貴重だった紙に筆でしたため、書き上げた所から断片的に流布させていて、どうして辻褄を合わせることができたのか。現実問題として、断片的に流布させていた原稿を回収し、辻褄を合わせるために書き直すなんてことは不可能だ。そう考えると、思いつきのまま好きな所から、行き当たりばったりで書いていたとは考えにくい。

とは言え、これに関しても確定的な答えを出すことは、もはや不可能だ。流れ去った1000年という歳月は、あまりにも長すぎる。

紫式部は、この帚木三帖の中に出てきた登場人物も、後の帖に、ちゃんと辻褄を合わせて登場させている。たとえば空蝉が再び物語に登場するのは第十六帖の「関屋」だ。空蝉は「夕顔」の最後で年老いた夫と共に伊予に下った。そして源氏は朧月夜とのスキャンダルで失脚し須磨に身を落としていたが、兄の朱雀帝の夢にふたりの父である桐壺帝が現れ叱咤したことによって、源氏は無事に都に呼び戻され、源氏の栄華が始まっていた。

そんなある日、源氏は念願だった石山詣に旅立つ。一方、空蝉は任期を終えた夫と共に都へ戻ろうとしていた。そんなふたりの車列が偶然、逢坂の関ですれ違い再会するのだ。その後、都へ戻った空蝉は夫と死に別れ、それを機に関係を迫り始めた、「帚木」の中で空蝉に想いを寄せていた空蝉の義理の息子である紀伊守を振り切るために彼女は出家し、落魄れた境遇に身をやつしていた所を源氏に救い出さされ、源氏の二条院の屋敷に引き取られる。

また「帚木」の中で語られていた、夕顔と頭中将との間に生まれた行方知れずだった少女は、乳母に引き取られ九州へと流れていたが、そこで美しく成長し第二十二帖「玉鬘」のヒロイン、玉鬘となって物語に登場する。源氏は長谷寺参詣の折に偶然、夕顔の侍女だった右近と再会し、こうして玉鬘は源氏の六条院の屋敷に引き取られるのだ。


『源氏物語』というのは、まさに途方もない物語だ。でも僕の源氏は、この「夕顔」で終わりにしようと思っている。もちろん「桐壺」を訳し始めた当初は五十四帖すべてを訳し、五十四帖すべてを音声出版しようと思っていた。そして「夕顔」を訳し終わった後、次の「若紫」も少し訳し始めてはいたが。

思えば、小説などという人の作り話なんて読むのは時間の無駄だと思っていたバカな高校生だった。でもそんな僕が唯一読んだ小説が『源氏物語』だった。そして僕は『源氏物語』から多くのことを学び、また現代語訳をすることによって『源氏物語』からさらに多くのことを学んだ。

だから『源氏物語』をもっと深く知りたいと思ったら自分で訳してみて欲しい。きっと『源氏物語』は、訳すことによってさらに多くのことを語ってくれるはずだ。それが『源氏物語』という文学の楽しみ方でもあるんだ。『源氏物語』は単語の数が圧倒的に少なく、表現も極端なまでに抑えられている。だから様々な解釈ができる面白さがある。言葉は時代と共に動いている。だから自分の言葉で訳せばいい。僕にだって訳せたんだから……。


源氏物語 note 02


『源氏物語』は単語の数が圧倒的に少ない。それは、この時代のコミュニケーションが「言わなくてもわかる」というルールの上に成り立っていたことも、少なからず影響しているんだろう。もちろん僕は国文学の研究者ではないから、これはただの素人が勝手なことを言ってるだけだと思って、真に受けないで欲しい。
 
例えば「夕顔」の帖。源氏がある家の前で牛車を止め、ふと「おちかたびとにものもうす」と呟く。するとそれを聞いた随身はすかさず「かの白く咲けるをなむ夕顔と申しはべる」ようするに、あの白い花は夕顔ですと答えた。それは随身が古今和歌集の「うちわたす遠方人(おちかたびと)にもの申すわれそのそこに白く咲けるは何の花ぞも」という歌を知っていたからだ。
実は、この時代のコミュニケーションの「言わなくてもわかる」というルールは、特に貴族階級の人々にとっては、まさに生きていく上での必然だったのだ。文学を始めとする様々な文化的教養を身につけておかなくては、出世はおろか、恋愛すらもできなかったのだ。
 
またこのようにして紫式部が生きていた平安時代は、和歌という短詩系文学の全盛期だったわけだが、和歌はそれ自体が当時のコミュニケーションツールでもあったのだ。そして和歌には「余情」という美学があった。「和歌の表現内容の奥に感受される美的情緒」広辞苑には余情についてこう書かれている。すなわち余情とは、その言葉の背後にある文字として表現されていない「何か」のことで、時として和歌においては言葉よりも、余情にこそ作者の真意が隠されていたのである。
 
ようするに平安時代は、その限られた言葉の中から、そこに込められている広大な「何か」を探り味わうということが常識的に行われていた時代だったのだ。したがって、この時代に生まれた物語文学もまた、和歌と同じ美学、同じ方法論で書かれていたんじゃないか。そう、『源氏物語』を読み解く作業というのは、和歌を読み解く作業と同じなんだと僕は思う。

したがって『源氏物語』の現代語訳をするにあたって必要となるのは、古典文法の基礎知識だけではない。もっとも古典文法に関しては便利なアプリケーションもあるし、Googleで検索すれば即座に大量の解答が得られる。必要となるのは想像力だ。

圧倒的に少ない単語の中から、その主語はいったい誰なのか?それはいったい何を表しているのか?という謎を解明する想像力だ、

実は厄介なことに『源氏物語』の文体にはほとんど主語がない。しかし主語に関しては、使われている敬語によって、ある程度は解明できる。敬語のランクが最上級なら主語は帝だといったように。でも、そう簡単には事が運ばない場合も多々ある。例えば「桐壺」の中で、世の人々が源氏のことを「光る君」と呼び、藤壺のことを「輝く日の宮」と呼ぶくだりの「宮」だ。
 
「世にたぐひなしと見たてまつりたまひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほにほはしさはたとへむ方なく、うつくしげなるを、世の人光る君と聞こゆ。藤壺ならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、かかやく日の宮と聞こゆ」

世に類ないと名高い「宮」の美しさにも決してひけをとらない源氏の美しさ。この美しい「宮」はいったい誰なのか?

この「桐壺」の時点で宮と呼ばれる人物が3人いる。源氏と藤壺、そして帝と弘徽殿女御との間に生まれた第一皇子だ。僕はこの「宮」を藤壺と訳した。彼女はこれまでも、人々が口々に「美しい」と絶賛する美少女として描かれている。しかし後で調べてみると、この「宮」を第一皇子としている現代語訳も多くある。はたして、そうなのか?

これまで彼の母親である弘徽殿女御は、意地悪なその性格の悪さを表現したくだりは多く散見できるが、美しいと表現されたことは一度もない。また弘徽殿女御の娘、ようするに第一皇子には2人の姉妹がいたが、その容姿は源氏の美しさとは比べようもなく不細工だと書かれている。

そんな母親と姉妹をもつ第一皇子だ。これまで彼自身もまた可愛いと表現されたことは一度もなかった。にも関わらず何故に突然、絶世の美男子になったのか?もちろん母親にも姉妹にもまったく似ていない美男子が生まれることだってあるのかもしれないが、こればかりは原文に文字として書かれてないから、その美しい「宮」がいったい誰なのか?確実な答えは分からない。想像するしかないのだ。


こういった、もはや想像をめぐらすしか術がない「謎」は、単語の数の圧倒的な少なさという問題以外に、紫式部が書いた原本が残っていないという問題もある。

近年、松平信綱の子孫、大河内家の蔵の中から藤原定家による『源氏物語』の「若紫」の写本が発見され話題になったが、その中にも現在、定本とされている写本との相違点があることが指摘されている。

紫式部が書いた『源氏物語』の原本は遠の昔に失われていて、それ以後『源氏物語』は多くの人々によって書写されていった。そもそもこの「書写」というのは実に曲者で、また多くの人々によって多くの写本が作られていったということも多くの問題を秘めている。

人が手で、紙から紙へと書き写すのだ。当然そこには誤写もあったはずだ。ちなみにこの誤写に関しては、仮名で書かれていたということも大きく影響しているはずだ。漢字では伝わるが、仮名では伝わりにくい曖昧さというものがある。

もちろん中には、文学とは縁遠い人が書写していた可能性もあって、その文学との縁遠さゆえの誤写もあっただろう。逆に誉高い文学者が書写した可能性もあり、その場合、その文学的素養を生かし原本が書き変えられた可能性もある。

とにかく平安時代には、すでに話題となっていた『源氏物語』の多くの写本が存在していたことはまず間違いないと思われていて、その時代からすでに様々な、原本とは異なった写本が存在していただろうと指摘されている。

だから今、『源氏物語』の現代語訳をするにあたってもうひとつ必要なのは、原文を疑ってみることだと思う。もちろん学校の試験であれば、一言一句、原文に忠実に訳すべきだし、そうすることが要求されている。でも1000年前に書かれた、すでに原本が失われた『源氏物語』を写本から訳す場合、時としてその写本を疑ってみることは必要だ。

実は「桐壺」の現代語訳をやっていて、僕にはどうしても腑に落ちない箇所があった。これはラブストーリーとして『源氏物語』を訳している場合には、そのストーリー展開にはまったく関係がない、どうでもいい箇所だ。

「左馬寮の御馬、蔵人所の鷹すゑて賜はりたまふ。御階のもとに親王たち上達部つらねて禄ども品々に賜はりたまふ」

これは、源氏が元服の儀式を終えた後、その元服の儀式の際に引入大臣(ひきいれのおとど)を務めた左大臣を宮中に呼び寄せ、帝が彼に褒美を授けるくだりだ。左大臣は清涼殿で帝より大袿や御衣一揃を授かった後、東庭におりて帝に対し拝礼を行う。そしてその東庭にはまた、左馬寮から馬と、蔵人所から鷹が用意されていて、左大臣に贈られた。

僕が腑に落ちないのは、その後の「御階のもとに親王たち上達部つらねて禄ども品々に賜はりたまふ」というくだりだ。清涼殿の表階段に、親王や高級貴族が整列していて、そこで帝からの祝儀の品々を受け取る。そんなことがありうるだろうか?

左大臣は今でいう総理大臣だ。総理大臣には清涼殿の中で褒美を授け、彼よりもはるかに身分の高い親王や貴族には、清涼殿の中ではなく屋外の階段に整列させ、そこで祝儀を受け取る。僕はどうしても、そのシーンが想像できないのだ。

確かにこれは、想像するから想像できないのであって、ラブストーリーとは関係ないと、想像しなければ何の問題もないどうでもいい箇所には違いない。そして当然、原本が失われている以上、紫式部がこの箇所をどのように書いていたのかは分からない。

でも、ひとつだけ確実に分かっているのは、我々は紫式部が書いた原本を読んでいるのではなく、あくまでも誰かが書写した写本を読んでいるにすぎないということだ。これはとても大切な留意点だ。

現在『源氏物語』のスタンダードとされている藤原定家による写本にしても、彼が書写するまでに、すでに多くの人々の書写を経ていることは明らかだ。実際、定家は彼の日記『明月記』の中で、『源氏物語』の決定版を作るために集めた数々の写本について、その写本ごとに違っていて、いったいどれが紫式部の書いたものに近いのか判断のしようがないことを嘆いている。

そんな、繰り返された書写という過程の中で、原本の文体がどのように動き、どのように変化していったのか?と疑い、探ってみることは、紫式部が書き終えた1000年後に『源氏物語』を読む我々にとって必要なトライだと思う。それは決してタブーではない。

源氏物語 note 01


桐壷の中の、源氏の元服のシーンに「添い臥し」という単語が出てくる。普通これは、単なる添い寝を意味しているが、紫式部が源氏の元服の夜に「添い臥し」という単語を使ったのは、単なる添い寝という意味ではない。当時、特に源氏のような身分の高い少年の元服には、その夜、然るべき貴族の少女と性交渉をさせるという一種の通過儀礼が行われていたのだ。

僕は、ただ『源氏物語』を現代の言葉に訳しているにすぎない。したがって道徳観や倫理観を云々する立場にはないし、そういったものを持ち出す気もない。だから僕は桐壷の「添い臥し」という単語を、紫式部が使ったままの意味「元服の夜に添い寝をさせる相手」として訳した。


 また空蝉は、源氏と紀伊介の後妻との愛の駆け引きが描かれている帖だが、古来、空蝉はもうひとつの愛、すなわち源氏と空蝉の弟である小君との愛について盛んに取り沙汰されてきた。こういったことが影をひそめたのは、おそらく近代になり同性愛というものがタブーとなったからだろう。そしておそらく近代に行われた『源氏物語』の現代語訳もまた、読者に不快感を与えないように、そういったことに配慮して訳されてきたのだろう。

しかし平安時代、たとえば藤原頼長の日記『台記』には、彼と貴族や武士たちとの同性愛が詳細に記されていることはよく知られているし、文学にいたっても、姫君として育てられた女装した内気な兄と、若君として育てられた男装した勝気な妹の物語『とりかへばや物語』は特に有名だし、少し時代は下るが『我が身にたどる姫君』にいたっても、男と男、女と女の愛というものが描かれている。


では源氏と小君の関係はどう描かれているのか。

実際に源氏と小君の性交渉の記述はない。これは源氏と小君との間に限ったことではなく、紫式部は『源氏物語』の中に性交渉の場面をまったく描いていない。たとえば源氏がまだ少女だった若紫との初めての夜の場面もまったく描かれていない。ただ「男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり」ようするに源氏は早く起きたが、若紫がなかなか起きなかった朝があった、これで紫式部は二人の初めての夜を表現している。


 空蝉の中で源氏は、小君について「らうたし」可愛い、「あはれ」愛しい、という言葉を使い、夜はそばに寝かせ、手で触れた小君の体の感触が姉君の体の感触と似ていると言っている。ただ、それだけである。源氏は17歳、小君は13歳。正妻となる葵上が添い臥しを勤めた、源氏が元服をしたのは15歳だった。

それを読み、二人の間にどんな関係があったのか、それを判断するのは読者自身の感受性の問題だ。

1000年前に、紫式部というひとりの女性によって書かれた『源氏物語』は、その後、多くの時を経て、多くの人に読まれてきた。そこにはまたいろいろな時代が流れ、様々な価値観が様々な時代の人々の心を揺り動かし、そんな中で『源氏物語』は読まれ続けてきた。

今、LGBTという価値観が広がりをみせ始め、従来の既成概念を次々と塗り替えようとしている。そんな時代を迎え、我々は今、新たに『源氏物語』をどう読むのか。